アメリカの行き過ぎたポジティブ・シンキングの例として、「癌は贈り物」と互いに言い合う癌患者たちのことが批判的に書かれていた。
その記事を読みながら、「いるいる、そういう人」と思った。
例えば私は障害を抱えているが、「障害者になって良かった」などとは口が裂けても言わない。
確かにそういうことを言う障害者はいる。
だが、私はそういう姿勢を好まない。
みっともないとすら思う。
誰がどう見たって障害を抱えているよりか健常なほうがいい。
にも拘らずそのことを認めないのは、単なる負け惜しみである。
癌になって良かった、障害を抱えるようになって良かったなどと言う(思う)のは、もはや立派な病気だと思う。
ポジティブ病だ。
この病に侵されている人はそこかしこにいる。
20代前半の頃、ある人物とクラブに行ったのだが何らかの理由で中に入ることができなかった。
すると、この男は「いいよいいよ、どうせつまんなかったに決まってるよ!」と言ったのである。
上手く言えないが、私はそのようなことを言うのは恥ずかしいことだと思った。
何故なら彼も私もクラブに行きたかったからだ。
彼も内心ではクラブの中での体験が、つまらないに違いないなどとは思ってなかったはずだ。
そうであるのに、それを正直に認めない。
それどころか望んでいたが得られなかった対象を貶めたりする。
その行為はイソップ寓話の「酸っぱい葡萄」そのものだ。
知らない人のためにそれがどのような話かを、Wikipediaからの引用で書いておく。
お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱいに決まっている。誰が不味そうな葡萄なんか食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てると別の食べ物を探しに去っていった。
クラブに入れなかった程度のことを負け惜しみするのはまだいい。
しかし、これが癌や障害のこととなるとかなり見苦しい。
本気で癌になったことや障害を抱えるようになったのを良かったと感じていたら、相当な病気だ。
ま〜、彼らの考え方が分からないでもない(彼らが実際どのように思考しているかは知らないが。。。)。
癌や障害を抱えているという事実が変えられないのなら、せめてその事実の受け止め方を自分に楽な風に変えたほうが合理的だとでも言うのだろう。
だが、それでもやはり私はそのように考えるのに抵抗がある。
はっきり言って嫌である。
客観的に外から自分を眺めた時に、滑稽ではありたくないからだ。
ある種のダンディズムかもしれない。